呪いからの解放
- 3月31日
- 読了時間: 3分
卒業生全員「辛かったマラソン大会!」
生徒A「それでも僕たちは負けずに走り切りました!」
卒業生全員「走り切りました!」
生徒B「楽しかった日々!仲間との思い出!」
卒業生「ぜったいに忘れません!」
卒業式の「呼びかけ」ずっと嫌いだった。
思ってもないことを全員で言わされるあの感じ。
感情は人それぞれのはずだろってずっと思ってた。
あれはもう大人達の為の演出でしかない。
保護者、そしてその他、来賓へのアピールの場でしかない気がする。
「協調性のある立派な子供たちに育てました」
みたいな。
もしかしたらあの儀式に教師達も何も疑問に感じていなかったかも知れない。
教育委員会から
「卒業式は呼びかけ必須ね!」みたいな感じだったのかも知れない。
もちろん協調性は大事だ。ただな、行き過ぎると無理がでる気がするんだよ。
本当は違うと思っていても、口を揃える。
納得していなくても、空気に合わせる。
そうやって少しずつ、自分の感情にフタをすることが当たり前になっていく。
その場は誤魔化せてもあとになってズレが溜まるんじゃないかなって思うんですよ。
「本当はどう思っていたのか」すら、分からなくなっても不思議ではない。
みんなで同じことを言えることが正しい、
そんな空気の中で、違うことを感じている自分の方が間違っているような気がしてくる。
でも、本来は逆だろう。
感情は揃えるものじゃない。
バラバラでいいはずだ。
俺らが受けた義務教育は、
◾️協調性を大事に
◾️諦めない
◾️迷惑をかけない
そんな類の聞こえのいい言葉でできていた。
でもそれはあまりにも漠然としていて、どこまでが正解でどこからが無理なのか、少なくとも俺は教師の方々には教わっていない。
協調性ってどこまで合わせればいいかい?
諦めないっていつまで踏ん張ればいいかい?
迷惑をかけないってどこからが迷惑なのかい?
その境界は曖昧なまま、ただ「なんか、いいこと」として押し付けられていた。
協調も行き過ぎれば同調圧力になり萎縮を引き起こす。
諦める判断だってクソ必要だ。自分にとってベストな選択肢にたどり着く為には取捨選択なしには考えられん。
生きてりゃ誰かに迷惑をかけてしまうのは当然ある。「迷惑かけられた時に赦してやれ」って考え方も持っていなきゃダメだ。
と、まぁ色々書きましたがね、
その時の呪いがまだこびりついてしまってる人が多いと思うんですよ。
だからそこからも卒業しましょうって話。
周りと比べて不安になんな。
周りの幸せとお前の幸せは違う。
他人とそんなので競うな。


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