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誰かが死ぬほど生きたかった今日

  • 4月17日
  • 読了時間: 2分

お前が無駄にした今日は誰かが死ぬほど生きたかった今日なんだよ


って言われてもね、


「じゃあ俺の今日、その人にあげるよ。でもどうやって?まずは市役所行けばいいかな?」って感じなんです。



寿命は人それぞれ。制約の中でそれをどう使うかは完全に自由。



やること無さすぎて鳩にパンをあげるフリして背中に投げ当てて過ごしたとしても、

スタバ行って無駄にパソコン開いて仕事してる感出しながらYouTube見てたとしても、

ソファーに寝っ転がってスマホでネット見たとしても、

どこかで聴こえるキジバトの鳴き声を無駄に探して過ごしたとしても、




己が決めた事だ。


それでいい。



何もできなかった、何も成長しなかったという罪悪感に更に罪悪感でミルフィーユすな。



何もできない日、ダラダラする日、頭が回らん日、これを全部含めて「人間」だ。



この手の言葉は

追い込むためじゃなくて、方向を戻すために使いたい。




ほとんどが自分の責任なんですよ。

今ここに立っているのは、その環境にいるのは、


殆どが自分で決めた事なんです。

過去の自分が決めてきた事なんだと思うんです。





よし、話が脱線してしまう前に野村がこの言葉をより研ぎ澄ませて見せよう。







誰かが生きたかった今日など知らん。

申し訳ない。今日ゲームしてもいい?


野村太一






雰囲気に騙されるな。

刃も研ぎ過ぎたら、なんだ、こう、なんか、な?

ほら。



楽しく生きろ




写真:坂下さん(君はバイクに乗るだろう)


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